気づけばセミがいない季節になった。
「あ、セミが鳴き始めたな」とは思うのに、
「あ、セミの声がしなくなった」は、大分たってから気づく気がする。
地面に転がっていた無惨な死骸も、誰かが片付けてくれていつの間にか姿を見なくなった。
グシャっと潰れたセミを見て、子どもの頃思ったことは「気持ち悪ゥい」。
少しお姉さんになって、「可哀想…」と感じるように。
新米の大人になった今は、「ちゃんと卵を産めたかな」なんてことを考える。
彼らが何年も土に潜った末、出てきた1週間には、子種を残すという唯一かつ最大の目標がある。それ以外のこと、例えば死に場所がどうとか、死に姿が格好悪くないかとか、そういうことはどうでも良いんだろうなあ。なんて思うから。
鳴き声が五月蝿い!と言うのも、風流な短歌に詠むのも、死骸を踏みつけてしまって嫌な気分になるのも。
どれも私たちの勝手であって、彼らにはどこ吹く風なんだろうなあ。
小さい頃、夏の夕方、父はよくセミの幼虫を拾ってきた。
カーテンに登らせて、家の中で脱皮させるのだ。
硬い背中にヒビが入り、次第に広がって、中から白のような黄緑のような、キレイな色が出てくる。
頭から出てきたそれは、お尻を出す前に起き上がって、器用に己の殻に掴まりながら全てを外気に晒す。
殻から出てきたばかりのセミは、透明感があってとてもきれいだ。飛ばないし鳴かないし。
それが、朝になると部屋をバタバタ飛び回っていたりして、少し失望する。
奇しくも、一生の大事な一日を我が家のカーテンで過ごすことになった彼ら。
もちろん焼くでも煮るでもなく、朝一番に大空に放す。
そんなのが夏の思い出。彼らの大合唱が耳に残っているうちに。
そろそろ、金木犀が香ってくる季節でしょうか。