セミ

気づけばセミがいない季節になった。


「あ、セミが鳴き始めたな」とは思うのに、

「あ、セミの声がしなくなった」は、大分たってから気づく気がする。

地面に転がっていた無惨な死骸も、誰かが片付けてくれていつの間にか姿を見なくなった。


グシャっと潰れたセミを見て、子どもの頃思ったことは「気持ち悪ゥい」。

少しお姉さんになって、「可哀想…」と感じるように。

新米の大人になった今は、「ちゃんと卵を産めたかな」なんてことを考える。


彼らが何年も土に潜った末、出てきた1週間には、子種を残すという唯一かつ最大の目標がある。それ以外のこと、例えば死に場所がどうとか、死に姿が格好悪くないかとか、そういうことはどうでも良いんだろうなあ。なんて思うから。

鳴き声が五月蝿い!と言うのも、風流な短歌に詠むのも、死骸を踏みつけてしまって嫌な気分になるのも。

どれも私たちの勝手であって、彼らにはどこ吹く風なんだろうなあ。


小さい頃、夏の夕方、父はよくセミの幼虫を拾ってきた。

カーテンに登らせて、家の中で脱皮させるのだ。

硬い背中にヒビが入り、次第に広がって、中から白のような黄緑のような、キレイな色が出てくる。

頭から出てきたそれは、お尻を出す前に起き上がって、器用に己の殻に掴まりながら全てを外気に晒す。

殻から出てきたばかりのセミは、透明感があってとてもきれいだ。飛ばないし鳴かないし。

それが、朝になると部屋をバタバタ飛び回っていたりして、少し失望する。

奇しくも、一生の大事な一日を我が家のカーテンで過ごすことになった彼ら。

もちろん焼くでも煮るでもなく、朝一番に大空に放す。


そんなのが夏の思い出。彼らの大合唱が耳に残っているうちに。

そろそろ、金木犀が香ってくる季節でしょうか。

ザ・シークレットマン/ペンタゴン・ペーパーズ

二本立ての名画座にて、『ザ・シークレットマン』『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を観てきました。


どちらもベトナム戦争の時期のアメリカが舞台。

かの有名なウォーターゲート事件に、違った切り口から繋がる二作。一緒に観てよかった。

二本立てって、組み合わせ方のストーリー性も含めて良い!ってときには興奮が二乗になる感じ。


以下、観た順


『ザ・シークレットマン』

ウォーターゲート事件でワシントン・ポスト紙の記者に内部告発をした「ディープ・スロート」こと、当時のFBI副長官マーク・フェルトが主人公。

2008年に亡くなったフェルト氏は、死の3年前に自身が「ディープ・スロート」だったことを明かしたそう。

この事件を記者側から描いた『大統領の陰謀』を学生時代に観たのですが、こちらが公開された1976年にはまだ真相は明かされていないんですね。だから地下駐車場で情報を渡す彼は顔の見えない黒い影のように描かれている。

一転、本作での彼はとても人間的で。FBIに30年、忠誠を誓ってきた組織人でありながら、独立組織であるはずのFBIにかかる圧力に揉まれ、告発に踏み切る。ベトナム戦争反対の世論が吹き荒れる中で、ニクソン大統領の退任にまで繋げたのだから、まさに「史上最大の告発者」。

冒頭ではエリート高官の印象が強かったけれど、次第に信念の通った顔つきに変わって見えてくる。うわぁ、格好良い…!という感情が、ラストに向けてジワジワと高まってどすんとくる感じでした。



『ペンタゴン・ペーパーズ』

ホントはこっち目当てで足を運んだんだけれど、1本目が思わぬ伏兵となって結構ぐったりの状態で観始め。でもこちらも期待に違わず良かった!

時代はウォーターゲート事件より前の1971年。泥沼化するベトナム戦争の現場から話が始まります。

ベトナム戦争に関して報道されている部分とそうでない膨大な取引や発言。後者について仔細に記録した「ペンタゴン・ペーパーズ」の存在をNYタイムズがスクープし、物語がはじまる。

主人公となる「ワシントン・ポスト」の経営者である女性と編集主幹の男性は、タイムズに抜かれた敗北から、この文書を巡る渦中の人となっていきます。

新聞社の経営と編集って立場が違うから対立の構図で描かれがち。でも本作では考え方の違いがありながらも、もっと大きな目的にむかって最終的には解りあうのが面白い。

そして何より、緻密な取材を重ねる現場の記者たちが格好良い!タイプライターをカタカタという音、ざわざわとした編集局の雰囲気が小気味よく、生き生きとしているのです。

色々な人の努力や思い、決断が詰まった紙面。輪転機が回って、新聞がザーっと出来上がる様は、見ていてとても気持ち良い。

ガサガサ、ペラペラと音をさせながら、紙の新聞を読みたくなる一本でした。

3月のライオン1-7

原作マンガのほう。



学校での理不尽にひなちゃんは立ち向かい、桐生少年は見ぬふりをして将棋に浸った。


なにか違うな、つまらないなと思いながらも、適当にやり過ごすしか見つからなかった、私の学生時代。


やり過ごすために一緒にいた友だちとは、もう付き合いはない。


変わり者でも良いじゃないかと、周りの目なんて気にする必要ないよと、今の自分なら思えるけれど、

子どもにとっては学校という小さな箱が世界の全てだ。


そんな頃を思い出す。

私も遡って救われる。